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その日の雨は、傘を差していても意味がないほど激しかった。
都心の高層ホテルを出た相沢結衣は、自動ドアの向こうを白く煙らせる雨を見ながら、思わず小さくため息をついた。仕事を終えたのは午後九時を少し回った頃で、いつもなら地下鉄の駅まで歩いて帰るところだったが、この降り方では駅に着く頃には靴の中まで水浸しになりそうだった。
「こういう日に限って替えの靴下も持ってないんだよね……」
誰に聞かせるでもなく呟き、結衣はバッグの中を探った。折り畳み傘はある。スマートフォンもある。財布もある。しかし、雨の日に限って普段持っている小さなタオルが見当たらない。
昔からそうだった。必要なときに限って、どうでもいいものばかり鞄の底から出てくる。
今日も、弟が子供の頃にくれた古いキーホルダーや、期限の切れた割引券や、いつ入れたのかも覚えていないミントキャンディーまで出てきたのに、肝心のタオルだけがなかった。
「もういい。濡れたら帰って洗えばいいだけだし」
結衣は諦めることにした。
今日の仕事は、海外企業の役員を招いた福祉関連の国際フォーラムでの手話通訳だった。予定では夕方には終わるはずだったが、会議が長引き、さらに主催者側から追加の通訳を頼まれたため、こんな時間になってしまった。
疲れていないと言えば嘘になる。
肩は重いし、立ちっぱなしだったせいで足も痛かった。それでも、仕事そのものが嫌いなわけではなかった。むしろ結衣は、自分の手が誰かと誰かの言葉をつなぐ瞬間が好きだった。
耳が聞こえる人と、聞こえない人。
言葉を話せる人と、話せない人。
それまで別々の場所に立っていた人たちが、自分の手を通して一瞬だけ同じ場所に立つ。
その仕事を選んだ理由を尋ねられるたび、結衣は「昔から手話ができたから」と適当に答えていた。
本当の理由まで説明すると、相手が困った顔をすることを知っていたからだ。
亡くなった弟が聴覚障害者だったから。
その一言を言った瞬間、たいていの人は「ごめんなさい」と謝る。
何も悪いことをしていないのに。
だから最近は話さなくなった。
結衣はロビー脇のエレベーターへ向かい、地下駐車場行きのボタンを押した。今日はホテル側が契約しているタクシー乗り場まで地下から行けると聞いていたので、そこから車を拾うつもりだった。
扉が閉まり、静かな音を立ててエレベーターが下りていく。
鏡張りの壁に映った自分を見て、結衣は思わず顔をしかめた。
「ひどい顔」
目の下に薄く疲れが出ている。
まとめていた髪も少し崩れていた。
二十七歳にもなって、仕事終わりに鏡を見てがっかりすることくらい、もう慣れているつもりだった。それでも今日の自分は、さすがに誰かと食事に行けるような顔ではない。
もっとも、そんな予定もなかった。
恋人はいない。
しばらく作る予定もない。
母からは電話のたびに「誰かいい人はいないの」と聞かれるが、結衣には誰かと付き合う余裕より、翌日の仕事の準備をして寝る時間のほうが大事だった。
エレベーターが地下二階に着いた。
扉が開く。
途端に、ひんやりとした空気が流れ込んできた。
ホテルの地下駐車場は、夜になると妙に広く感じられる。
コンクリートの柱が規則正しく並び、ところどころに高級車が停まっていた。天井の蛍光灯は十分明るいはずなのに、地上とは違う閉塞感があった。
結衣は案内表示を確認しながら歩き始めた。
「タクシー乗り場、あっちか……」
ヒールの音が、乾いた駐車場の床に響く。
数十メートルほど進んだところで、結衣は足を止めた。
何かが聞こえた気がした。
泣き声ではない。
話し声でもない。
靴が床を擦るような、小さな音だった。
結衣は周囲を見回した。
車の陰には誰もいない。
気のせいかと思い、もう一度歩き出そうとしたときだった。
柱の向こう側に、小さな白い靴が見えた。
「……え?」
結衣は眉を寄せた。
近づいてみる。
そこには少女がいた。
六歳くらいだろうか。
淡いベージュ色のワンピースに紺色のカーディガンを羽織り、長い髪を一つにまとめている。服だけ見れば、どう考えても普通の家庭の子供ではない。ワンピースも靴も上質で、胸元には小さな金色のブローチまで付いていた。
けれど、その少女は床にしゃがみ込み、膝を抱えて震えていた。
「どうしたの?」
結衣は少し離れたところでしゃがんだ。
急に近づけば怖がらせるかもしれない。
「お母さんか、お父さんと一緒じゃないの?」
少女は顔を上げた。
大きな灰色がかった瞳だった。
外国の血が入っているのかもしれない。
その目が、ひどく怯えていた。
「迷子かな。大丈夫、ホテルの人を呼ぶから……」
結衣がスマートフォンを取り出そうとすると、少女の顔色が変わった。
小さな体がさらに強張る。
「待って。電話、嫌なの?」
少女は答えない。
ただ首を振った。
結衣はスマートフォンをバッグへ戻した。
「分かった。電話しない。少なくとも、今はしないから」
少女は黙ったままだった。
結衣は困った。
迷子なら警備員かホテルスタッフへ連絡するのが正しい。しかし、少女の反応を見る限り、何か普通ではない事情がありそうだった。
「名前、教えてくれる?」
返事はない。
「日本語、分からないのかな?」
英語で同じことを尋ねてみる。
少女はやはり答えなかった。
けれど、こちらの言葉が分からないようには見えない。
むしろ理解したうえで、答えることができないように見えた。
結衣は少し考えた。
「声、出せない?」
その瞬間だった。
少女の右手が、ほんの少し動いた。
結衣は息を止めた。
人差し指と中指。
手首の角度。
ぎこちない。
けれど見間違えるはずがない。
「手話……?」
少女の瞳が大きくなった。
結衣はすぐに声を出すのをやめ、ゆっくり手を動かした。
『私は結衣。あなたの名前は?』
少女は固まった。
信じられないものを見るように結衣を見ている。
『分かる?』
しばらくして。
少女の手が動いた。
『少し』
結衣は思わず笑った。
『よかった。じゃあ、ゆっくり話そう』
少女の肩から、ほんのわずかに力が抜けた。
『名前は?』
『エマ』
『エマちゃんね。何歳?』
『六歳』
『誰とここへ来たの?』
そこでエマの手が止まった。
表情が再び強張る。
結衣は質問を変えた。
『怖い?』
エマは頷いた。
『何が怖い?』
少し迷ったあと、エマは手を動かした。
『知らない人』
結衣の背中を、冷たいものが走った。
『知らない人がどうしたの?』
『追ってくる』
さっきまでの疲れが一瞬で消えた。
結衣は立ち上がり、周囲を見回した。
車。
柱。
エレベーター。
人影はない。
だが、地下駐車場という場所が急に不気味に感じられた。
『一人で逃げてきたの?』
エマは頷いた。
『お父さんとお母さんは?』
その質問をした瞬間、エマの表情が変わった。
悲しい。
ただ、それだけではない。
もっと深いところに触れてしまった。
結衣はすぐに後悔した。
『ごめん。答えなくていいよ』
エマは唇を強く噛んだ。
それから結衣の袖を掴んだ。
小さな指が震えている。
『ここにいたら、見つかる』
結衣は迷った。
この子の話をどこまで信用すべきなのか。
本当に誰かに追われているのか。
単に家族かホテルスタッフから逃げているだけなのか。
警察へ連絡すべきだ。
ホテルの警備員を呼ぶべきだ。
大人として正しい判断はいくらでもある。
けれど、目の前の少女が震えながら自分の服を掴んでいる。
その手を振りほどくことだけはできなかった。
『エマちゃん』
結衣は目線を合わせるため、もう一度しゃがんだ。
『今から私と一緒に、人がいるところまで行こう。そこで誰を呼ぶか、一緒に決めよう。勝手に誰かに渡したりしないから』
エマは結衣の顔をじっと見た。
『約束?』
『約束する』
結衣が小指を出すと、エマは意味が分からないような顔をした。
そういえば、指切りという習慣を知らないのかもしれない。
「これはね……」
思わず声で説明しかけ、結衣は苦笑した。それから手話を使った。
『日本では、約束するときにこうすることがあるの』
エマは恐る恐る小指を絡めた。
小さな指だった。
冷たい。
それだけで、結衣の中に妙な怒りが湧いた。
誰なのか知らない。
何があったのかも分からない。
けれど、こんな小さな子を一人で震えさせるようなことをした人間がいるのなら、腹が立った。
『行こう』
結衣が立ち上がると、エマも立った。
手をつなぐ。
二人でタクシー乗り場とは反対側の、ホテルスタッフがいるはずの通路へ向かう。
しかし十歩ほど進んだところで、エマが突然立ち止まった。
「どうしたの?」
結衣が振り返る。
エマの顔から血の気が引いていた。
視線は、結衣の肩越しへ向いている。
そして震える手が動いた。
『来た』
結衣はゆっくり振り返った。
駐車場の奥。
黒いスーツを着た男が二人、こちらへ歩いてきていた。
さらにその後ろから、もう一人。
三人ともホテルの客には見えない。
歩き方が妙に速い。
そして何より、その視線は明らかにエマへ向いていた。
「エマ」
先頭の男が呼んだ。
少女が結衣の背中へ隠れる。
結衣の服を掴む指が、痛いほど強くなった。
「こちらへ来なさい。皆が心配しています」
男は穏やかな声を出していた。
しかし結衣は動かなかった。
「この子のお知り合いですか?」
「ええ。我々は迎えに来ただけです」
「お名前を伺っても?」
男の眉がわずかに動いた。
「あなたには関係ありません」
「関係ない人間に、六歳の子供を渡すほど無責任ではないつもりです」
「その子はこちらの関係者です」
「なら、身分証を見せてください。それからホテルの警備員を呼びます」
男の表情から笑みが消えた。
「面倒なことをしないでもらえますか」
「奇遇ですね。私も今、まったく同じことを考えていました。六歳の子供を地下駐車場で追いかけ回すなんて、ずいぶん面倒な真似をする人たちだなって」
自分でも驚くほど強い言葉が出た。
結衣は怖くないわけではなかった。
相手は成人男性が三人。
こちらはヒールを履いた二十七歳の女と、六歳の少女一人。
喧嘩になれば勝ち目などない。
それでも一歩下がれば、背中の後ろにいるエマまで下がる。
そう思うと、足だけは動かなかった。
男たちが近づいてくる。
「その子を渡してください」
「嫌です」
「我々が誰かも知らないでしょう」
「だから渡せないんです」
男がさらに一歩近づいた。
その瞬間。
駐車場の別の方向から、複数の足音が響いた。
今度は先ほどまでとは比較にならない数だった。
黒い車が一台、滑り込むように停まり、後部座席のドアが開く。
長身の男が降りてきた。
黒いスーツ。
雨に濡れた髪。
整った顔立ち。
しかし、結衣が最初に感じたのは容姿の良さではなかった。
怖い人だ。
そう思った。
静かに立っているだけなのに、その場の空気が変わる。
三人の男たちも足を止めた。
長身の男は彼らを見ることすらせず、結衣の背後へ視線を向けた。
そして初めて、表情を崩した。
「エマ」
低い声だった。
それまで震えていた少女の体が、大きく揺れた。
結衣は反射的にエマを庇うように立つ。
男の目が結衣へ向いた。
冷たい。
鋭い。
値踏みするような目だった。
「その子から離れてくれ」
命令することに慣れきった声音だった。
結衣は眉を寄せた。
「嫌です」
男の表情が初めて動いた。
「……何?」
「この子があなたを怖がっていないと分かるまでは、離れません」
周囲にいた男たちが息を呑んだ。
どうやら、言ってはいけない相手に言ってしまったらしい。
けれど、そんなことを知ったところで今さら遅い。
結衣はエマの手を握ったまま、目の前の男を睨んだ。
「あなたは、誰ですか?」
男はしばらく答えなかった。
その視線は結衣ではなく、結衣の後ろにいるエマへ向けられていた。
やがて彼は低い声で言った。
「九条玲司だ」
その名前を聞いても、結衣はすぐには意味が分からなかった。
ただ、周囲の人間たちの空気が明らかに変わったことで、この男が普通の人間ではないことだけは分かった。
そして結衣はまだ知らなかった。
この雨の夜、地下駐車場で握った小さな手が、自分の人生を根こそぎ変えてしまうことを。
恋人もいない。
結婚するつもりもない。
仕事だけは好きだった、平凡な二十七歳の手話通訳士が。
まさか一年後には、世界中から注目される男の妻として、その隣に立つことになるなど。
このときの結衣には、想像することすらできなかった。
第65話 誰かは、私たちの結婚を止めるのではなく「争わせたい」 旧家令室に仕掛けられていた小型通信機器を、その場で止めなかった判断は、翌朝には結果を返してきた。 午前六時四十二分。 本邸がまだ静かで、エマも眠っている時間に、装置は外部から一度だけ呼び出された。 実際の処理は監査環境の中で止められているため、相手には「正常に接続できた」ように見える。しかし、その通信が何を確認しようとしたのかは、篠崎たちの側からすべて見える状態になっていた。「相手が確認したのは、装置の生存状態だけではありません」 朝食前の書斎で、篠崎が記録を表示した。「九日後の婚姻成立後に発動する法的紛争保全命令について、送信先の有効性を確認しております」 玲司が椅子へ深く座る。「送信先はどこだ」「スイスです」「また?」 結衣は思わず聞き返した。 この数日、英国とスイスが近所のコンビニのような頻度で出てくる。「ただし、例の閉鎖倉庫ではありません」 篠崎が続ける。「ジュネーブにある民間仲裁機関です」「仲裁?」 玲司の眉が寄る。「何の争いを仲裁させるつもりだ」「そこが今回分かった部分です」 篠崎が一枚の申立書式を開いた。 結衣は最初の数行を読み。 意味を理解するまで、少し時間がかかった。「これ」 玲司も同じ箇所を見ている。「婚姻無効の申立てじゃないな」「はい」「後見人変更でもない」「はい」「じゃあ何なんですか」 結衣が尋ねる。 篠崎は淡
第64話 家令の部屋に、十九年前の「鍵」が残っていた 旧家令室という言葉を聞いた瞬間、玲司は榊を呼びつけなかった。 そこにいる全員が、それを少し意外に思ったらしい。篠崎でさえ端末から顔を上げたが、玲司は監査画面を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。「まず、部屋そのものを調べる」 ようやく出した指示は、それだけだった。 結衣は隣から玲司を見る。「榊さんには?」「知らせる。ただし、犯人みたいな呼び方はしない」「うん」「旧家令室から通信が出たという事実と、榊が操作したという事実は別だ」 少し前なら、この切り分けを結衣が口にしていた。 今は玲司自身が先に言う。「何だ」 見られていることに気づいた玲司が聞いた。「何でもありません」「また成長したと思った?」「今日は言いません」「思ってはいるんだな」「かなり」「結局同じじゃないか」 そんなやり取りをしてから、二人は篠崎と警備担当を伴い、本邸北側の旧管理区画へ向かった。 * 旧家令室は、今の榊が普段使っている執務室とは別にあった。 本邸が大規模改修される前まで、九条家の使用人、警備、運転手、私設医療スタッフまでを統括する中枢だったらしい。重い木製扉を開けると、長く人が常駐していない部屋特有の乾いた匂いがした。 古い机。 壁一面の収納。 館内連絡用だった電話機。 十九年前なら高性能だったのだろう大型端末が、今では家具の一部のように壁際へ残されている。「ここから?」 結衣が尋ねる。 篠崎が携帯端末を確
第63話 私たちの結婚を、囮にはしない 玲司と結衣の婚姻状態を、今この瞬間も誰かが確認している。 その事実が判明した翌朝、篠崎は本邸の小会議室へ、夜通し整理した監査記録を持ち込んだ。「先に訂正いたします」 開口一番そう言われ、玲司が眉を上げる。「何を」「昨日確認された『婚姻状態照会』ですが、現時点では不正アクセスと断定できません」 結衣は意外に思った。「正規の照会だったんですか」「正確には、正規に作られた自動照会です。十九年前から残る第二経路の中に、特定条件を定期確認する監視機能がございます」「誰が設定した?」「七年前です」 玲司の表情が変わった。 篠崎が画面を切り替えると、設定日の横に、二人の名前が表示された。 九条圭司。 そして。 御子柴冬一郎。「兄貴?」「はい」「御子柴先生も?」「本人へ確認済みです。設定した事実は認めておられます」 結衣は昨日まで感じていた気味の悪さが、少しだけ別の形へ変わるのを感じた。「じゃあ、圭司さんたちが玲司さんの結婚を監視してた?」「言い方に悪意がありますね」 玲司が嫌そうに言う。「だって実際」「もっと普通の言い方はないのか」「未来のお嫁さん待ち機能?」「悪化した」 篠崎がわずかに視線を落とした。「設定の目的は、エレノア様が残された文書の開示条件を確認するためです」 結衣は姿勢を正した。 正式な婚姻成立後。 玲司が自ら選んだ配偶者へだけ開示さ
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第61話 死んだ監査人が残したのは、犯人の名前ではなかった 村瀬隆臣という男について、玲司はこれまで「事故後に九条家を調べ、八か月後に自宅火災で亡くなった外部監査人」としてしか見ていなかった。 だが、東亜アセットシステムズの古い委託契約を洗い直すと、肩書きだけでは見えなかった役割が浮かんできた。「社員ではなかったんですね」 翌朝、結衣が資料を読みながら言うと、篠崎が頷いた。「はい。村瀬氏は独立系の監査法人に所属し、九条家関連システムの外部統制責任者として委託されていました。システムへ自由に入れる技術者というより、重要な代理認証が適切に行われているか確認する立場です」「つまり、鍵を使う人じゃなくて」「誰が鍵を使ったかを見る人間です」 玲司が答えた。「それなのに、記録上は村瀬さんの承認で圭司さんのIDが使われた」「はい」 篠崎が新しい画面を出す。「しかも村瀬氏本人は、事故の十日前に『自分の承認権限が複製されている疑いがある』と契約終了を申し出ています」 結衣は椅子の背にもたれた。「じゃあ、少なくとも本人は気づいていたんですね」「気づいたから辞めようとした」 玲司の声は落ち着いていたが、指先だけは資料の端を強く押さえていた。「問題は、その申請が受理されていないことだ」「誰が止めたんです?」「そこが残っておりません」 玲司が嫌そうに目を細める。「都合よく消えてるな」「ただし」 篠崎は続けた。「村瀬氏は、申請書とは別に個人的な監査記録を残していた可能性があります」「どこに」「一ノ瀬浩一郎先生へ確認したところ、村瀬氏から事故後に一度、『自分が死んだら
第60話 父は家族会議に参加したのではなく、止めに来ていた 軽井沢の迎賓施設で撮られた古い写真に、白石真帆の父・孝一が映っていた。 本来なら、そこにいる理由がない男だった。 九条記念医療センターの元事務局長。病院への匿名寄付を扱っていた人物ではあるが、九条家の後継問題を話し合う非公式の家族会議へ出席する立場ではない。「真帆さんに確認します」 結衣が言うと、玲司はすぐ頷いた。「ああ。ただ、写真を見せて『父親は何をしていた』と詰めるような聞き方はやめよう」「分かってます」「彼女自身、父親から全部聞かされていたとは限らない」「玲司さん」「何だ」「最近、私が言おうとしてたことを先に言いますよね」「悪いか」「悪くないですけど、ちょっと悔しい」「なぜ」「私の役割が減るから」 玲司が少し笑った。「君には他にも十分ある」「例えば?」「俺が間違ったときに止める」「それは残ってるんですね」「多分なくならない」 自信を持って言うことではない。 結衣が呆れている横で、篠崎はすでに真帆への連絡手続きを始めていた。 * 真帆と繋がったのは、日本時間の昼過ぎだった。 英国は早朝に近い時間だったが、彼女はすでに起きていたらしく、画面の向こうで髪を簡単に束ね、湯気の立つマグカップを手にしている。『写真を送ってください』 結衣が軽井沢で撮られた画像を共有すると、真帆はしばらく黙っていた。『父です』「やっぱり」『でも』 真帆の